【消防士から競輪へ】真鍋顕汰選手
2024.03.01

競輪選手には“様々な過去”を持つ選手たちがいます。
プロ野球選手、Jリーガー、オリンピックメダリストだった“過去”を持つスポーツエリートから、学校の先生、会社員、公務員、美容師などの“過去”を持ち活躍している選手もいます。
競輪選手を目指した理由(わけ)
そんな“様々な過去”を持つ競輪選手がどんな人生を歩み、どんなことをキッカケに競輪選手になる決意をしたのかをインタビューで紹介します。
自転車とは無縁だった“過去”を経験したからこそ分かる「競輪選手という職業」の魅力について語ってもらいます。
◆ 真鍋顕汰 Kenta Manabe(三重・121期)
三重県松阪市出身、現在29歳の真鍋選手。兄の影響から野球を始め、高校3年生の時に“夏の甲子園”に出場しました。
日本体育大学に進学しましたが、ケガや病気の影響もあり野球への思いは薄れていったそうです。
大学卒業後は消防士となり、地元で4年間勤務。職場の先輩の趣味だったロードバイクを一緒に始めたことが競輪選手への第一歩となりました。
同じ公務員から34歳で競輪選手となった、兄弟子・皿屋豊選手の存在が真鍋選手の挑戦を後押し。日本競輪選手養成所には1度の受験で合格し、2022年に27歳でデビューしました。
今年1月にはS級選手となり、今後さらなる活躍が期待される若手選手です。
甲子園球児
小さい頃は活発ではありましたが、シャイだったと思います。兄の影響で、小学2年生から学校のチームで野球を始めました。
ポジションは中学校までピッチャーやファースト、外野もやり、高校と大学では外野でした。
兄の出身も松阪高校。その野球部の監督から声をかけていただいたので、受験勉強を頑張って進学しました。
高校は文武両道の学校だったのですが、僕はいつも赤点ギリギリでしたね(笑)。
高校3年生の夏、三重県大会で優勝して“甲子園の出場”を決めたんです。県立の松阪高校としては春・夏通じて初めての甲子園でした。
1回戦の相手は、岡山の強豪校の倉敷商業。僕もスタメンで試合に出場しました。
ずっと憧れていた甲子園の舞台。球場はすごくきれいで、観客の熱気や応援席での盛り上がりは、今でも鮮明に覚えています。
3対8で負けてしまいましたが、すごく貴重ないい思い出となりました。
高校では野球部を引退するまで、進路のことは全く考えていませんでした。
「プロ野球選手になりたい」という思いもありましたが、実際に“甲子園の出場”も経験して、自分のレベルでは難しいことも実感したんです。
引退して進路に悩んでいた時に、監督が日体大への進学を勧めてくれたので、進学して野球を続けることにしました。
大学では入学当初から腰痛に悩まされながら野球を続けていましたが、耐えられなくなり、2年生の時に手術をしたんです。
2週間の入院生活を終えて退院したその日、今度は肺気胸になってしまって…。さらに1週間入院。
やる気が無くなってしまい、それからは“とりあえず”で野球を続けていたような感じでしたね。
大学卒業後は体育教師になろうと思っていたので、3年生の時には母校の松阪高校へ教育実習に行きました。
でも、授業内容を考えるのがシンプルに大変で「これはダメや」と思ってしまって(笑)。地元には帰りたかったので消防士になることにしました。
ロードバイクとの出会い
消防士になって、松阪南消防署で仕事がスタートしました。
仕事は朝8時半から始まり、消防車や救急車の車両をチェックし、積んでいる道具に異常がないか確認します。その後、火災や救急、事故、災害などの緊急時に出動していました。
僕がいた消防署は特に出動が多かったと思います。
救急では、患者さんやご家族の方から感謝の言葉をいただけることもあり、やりがいを感じていました。
休日の楽しみは筋トレをするか、友達と飲みに行くかでした。
筋トレは分かりやすく体が変わるので、成果を実感しやすいですし、終わった後に清々しい気持ちになるので、今でも好きです。
働き始めて1年目の時にできた趣味が、ロードバイクだったんです。職場の先輩にロードバイクに乗っている人が多くて、半ば強制的に始めさせられた感じでした(笑)。
15万円くらいのトレックのロードバイクを買って、先輩たちと伊勢神宮へ行ったり、美味しい食事を目当てに遠乗りをして楽しかったです。
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