オリンピックでのメダル獲得は「全てが“追い風”だった」 伏見俊昭選手(福島県・75期)

2024.09.18

男女合わせて約2,400名いる競輪選手には、さまざまな経歴や趣味を持った選手がいます。『推すスメ!選手インタビュー』では選手個々のプロフィールを、インタビューを通してひもといていきます。

 

今回は福島県・75期、現在48歳の伏見俊昭選手にインタビュー。

伏見選手はアテネオリンピックの銀メダリスト。競輪では『KEIRINグランプリ』を2001年と2007年の2度制覇。GⅠでも2001年の『オールスター競輪』を皮切りに5度の制覇を達成しています。

そんな競輪界のレジェンドであり、オリンピックのメダリストでもある伏見選手に自身の経験を振り返ってもらいました。

 

 

 

オリンピック

幼い頃、父に競輪場へ連れて行ってもらい選手がカッコよかったこと、中野浩一さんが日本のプロスポーツ選手として初めて1億円プレーヤーになったニュースを見て、「稼げるスポーツなんだ!」とすごく憧れたこともあり、競輪選手になることが夢でした。

高校から自転車競技を始めて、卒業後、競輪学校(現・日本競輪選手養成所)に入りました。

デビュー後に参加した記録会で1kmタイムトライアルの結果が良かったことから、ナショナルチームに招集されたんです。ワールドカップ(現・ネーションズカップ)や世界選手権に出場するようになり、だんだんとオリンピック出場という夢が膨らんでいった感じでしたね。

「いざシドニーオリンピックへ!」と意気込んでいたのですが、日本代表には選ばれず…。悔しくてしょうがなくて、人生で最も大きな挫折を味わった経験でした。

4年後のアテネオリンピックを目指すかは1年ほど悩みましたが、ナショナルチームの仲間たちが「もう一度、一緒に頑張りましょうよ」と言ってくれて、背中を押されました。

 

アテネオリンピックにはチームスプリントで日本代表に選ばれました。

チームスプリントは、直前の世界選手権で7位。メダル獲得圏内まで1秒以上の差があり、これは競輪で例えると“S級S班とA級が戦っているくらい”のレベルの差があります。

当時の監督が『一か八かの賭け』に出て、オリンピック前の1カ月ほど高地トレーニングを行ったんです。それが成功の鍵となり、本番では予選からタイムを大幅に縮めることができました。

さらに予選を上回るタイムでオランダを下して、1〜2位決定戦に進出してメダルが確定。“銀メダル”以上が決まった瞬間は、喜びがあふれすぎて監督になだめられたことを覚えています(笑)。

 

いま考えると、“勢い”も“組み合わせ”も“運”も全てが“追い風”でした。それぐらいじゃないとオリンピックでメダルを獲得するということは難しいのかもしれないですね。

銀メダルを獲得してからは、ずっと気分が良かったです。メダルを見ると、ついニヤニヤしてしまいますし、「おめでとう!」と知らない人から声をかけられることもよくありました。テレビ番組や講演にも呼んでもらえて、楽しくて幸せいっぱいでしたね(笑)。

『オリンピックのメダリスト』になれたことは僕の人生で一番の財産です。そして、一緒に戦った長塚(智広)くんと井上(昌己)くんがいたからこその結果です。2人を心から尊敬しています。

 

 

次は個人種目でメダルを取りたいと思い、北京オリンピックにはケイリンで出場しましたが、結果を残せず自転車競技を引退しました。

オリンピックという舞台を経験して感じたのは、普通の精神力では戦えない場所だということ。「関わってくれた全ての人の思いを背負う」というプレッシャー、「一生に一度かもしれない」という独特の緊張感、そして“運”も味方につけなくてはなりません。

今年のパリオリンピックはメダル獲得の期待をしていました。太田海也くんのスプリントでの降格、チームスプリントのスタート時のスリップなど、“不運”だったのかなって。この結果や僕の経験も踏まえると『オリンピックには魔物がいる』ということを実感しました。

 

 

 

25歳で賞金王

シドニーオリンピックに落選した悔しさから「競輪で絶対に結果を残してやる」と誓った2001年、『ふるさとダービー(GⅡ)』、『オールスター競輪(GⅠ)』、『KEIRINグランプリ』で優勝することができました。初めてのGⅠ優勝は、何物にも代え難い感動がありましたね。

年末の『(KEIRIN)グランプリ』も優勝して賞金王になると、「天下を取った」ような気持ちで、完全にうぬぼれていました(笑)。当時の僕に「落ち着け」と言ってあげたいです(笑)。

 

2011年の東日本大震災で、僕が暮らしていた(福島県)白河市も大きな被害を受けました。震災の2日後には原発事故が起きて…。岩見(潤)さんを頼って(三重県)松阪市に移り住んだんです。当時はいろんな選手が「避難してきなよ」と声をかけてくれて、本当にありがたかったです。

震災後はなかなか成績が上がらなくなってしまいました。いまでも「あの震災が無かったらどうだったかな」なんて思うこともありますが、起きてしまったことを嘆いてもしょうがないですしね。

新たに練習環境を築けたことに感謝しながら、できることを精一杯やってきました。

 

 

僕もあと少しで50代になります。これまで以上に自分との勝負になると思いますし、1年1年が勝負ですね。レースでは勝ちたいし、まだまだ選手として諦めたくないので、自分の体としっかり向き合いながら妥協せずに取り組んでいきたいです。

今年8月の松戸記念(GⅢ)の最終日、ラスト半周から“捲って”1着でゴールした時、お客さんの歓声がものすごくて久しぶりに鳥肌が立ったんです。「この歓声を聞きたくて頑張っているんだ」と、昔の気持ちを思い出させてもらいました。

今の目標は、GⅠ戦線に復帰すること。どんな時も1着を目指して、最高のパフォーマンスを出せるように頑張っていきたいと思います。

 

伏見俊昭 Toshiaki Fushimi

1976年2月4日生まれ、福島県白河市出身

身長181.0cm、登録地は福島県

 

1995年 75期でデビュー

2001年『オールスター競輪』でGⅠ初優勝

2001年『KEIRINグランプリ2001』優勝

2004年『日本選手権競輪(GⅠ)』優勝

2004年 アテネオリンピック・チームスプリントで銀メダル獲得

2007年『KEIRINグランプリ2007』優勝

2008年 北京オリンピック・ケイリンに出場

2008年『オールスター競輪(GⅠ)』優勝

2009年『SSシリーズ風光る(GⅠ)』優勝

2011年『読売新聞社杯全日本選抜競輪(GⅠ)』優勝

 

■詳しいプロフィールと出走情報はコチラ

 

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