4歳上の太田美穂(112期)と2人姉妹で小さいころから仲が良く、一緒に遊んだり出かけたりと姉妹で行動を共にすることが多かった。
父が陸上競技クラブのコーチをしていたこともあり、平日は学校、週末はクラブ活動と陸上競技中心の生活を送っていた。 短距離走が得意で運動会が一番の見せ場。
勉強はあまり得意ではなかったが、運動会では足の速さを発揮して目立っていたそうだ。
高校は市内の津商業高校へ進学した。
全国高等学校野球選手権大会にも出場したり、ビーチバレーの浅尾美和が卒業生にいるスポーツ名門高だ。
それなら制服がかわいい高校に行きたいと思っていろいろ探したら、津商業高校の制服がかわいかった。
ただ、自分が高校受験する年の夏に津商業高校が三重県代表で夏の甲子園に出場。
一気に競争倍率が上がって焦りました。
必死に勉強をして何とか合格することができました」
陸上競技で燃え上がるものもなく、将来やりたいことも見つからない。
そんな毎日の中で競輪選手になった姉から「自転車、乗ってみない?」と誘われたことがガールズケイリン挑戦のきっかけだった。
将来やりたいことはぼんやりと動物関係の仕事に就きたいかなって考えて、インターンシップに行ったけど、パッとしなかった。
そのタイミングで姉から声をかけてもらって自転車に乗ってみることになりました」
姉の太田美穂(写真左)と太田瑛美
姉がガールズケイリン挑戦を決めたタイミング(2014年10月・松阪)は、一緒に競輪場へ行き、山原さくらの優勝を目の前で見ていた。
しかし2017年の秋、姉の美穂は国体に参加してレース中に落車して頭蓋骨骨折、くも膜下出血、両顎骨折の大けがを負ってしまったのだ。
姉の大けがを見た瑛美は「私はやらない」と思ったそうだが、大けがをしてもガールズケイリンを続けている姉からの誘いに、進路が定まっていなかった瑛美は頷いた。
お姉ちゃんは自分に競輪選手になってほしかったのかも。
自分もやりたいことがなかったし、やってみるかって感じでした。
ロードレーサーを用意してくれて、あれよあれよって感じで松阪競輪場へ。
バンクに行ったら後に師匠になる萩原操さんもいて、ガールズケイリン挑戦の流れになりました。
ガールズケイリンをやってみようと思ったけど、自転車競技の経験もゼロだし、1年間しっかり練習をしてからかなと自分は思ったけど、(萩原)操さんが『試験を受けてみろ』って。
『無理でしょう』と思ったけど、経験だと思って、日本競輪選手養成所の118期を受験。
結果はやっぱり不合格。でももう一回120期で受けてみようと思いました」
アルバイトをすることも考えたが、両親から「バイトはしなくていい。練習だけしてなさい」と背中を押してもらい、日本競輪選手養成所合格のため練習だけに打ち込んだ。
「姉はプロの競輪選手。レースもあって忙しいのに、いつも練習に付き合ってくれました。
朝、昼、夕方、夜とずっと練習だったけど、姉がいてくれたから耐えることができました」
日本競輪選手養成所120期の1次試験は見事に合格。
しかし、そこからの2次試験クリアが難題だったそうだ。
でも2次試験のSPIと面接は不安でした(笑)。
松阪競輪場の職員さんに元塾の先生がいたんです。そのおかげで2次試験を何とかクリア。
三重の競輪選手はその職員さんにだいぶお世話になっていると思います。
自分もおかげ様で2次試験を突破できました」
試験結果は姉と一緒に見たそうだ。
お姉ちゃんと一緒に見たけど、2人してソワソワ(笑)。
スマホで合格発表を確認できたときはうれしかった。
118期で落ちてから落ち込んだ時期はあったけど、1年間練習をしてきたことが無駄じゃなかったと思えました」
期別:120期
身長:149.8cm
登録地:三重
誕生日:1979年5月1日
所属:デイリースポーツ(競輪記者歴13年)