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<前編>能登半島地震を乗り越え初優勝!122期・小林真矢香 【松本直のガールズケイリンちょっとイイ話】

特別企画 2024.08.09



“ミスターガールズケイリン”の異名を持つデイリースポーツ・松本直記者しか知らない、ガールズ選手の秘話や“いい話”を紹介します。



小林真矢香は石川県白山市生まれ。4歳下の妹、6歳下の弟と3人きょうだいの1番上として育った。

小さい頃から体格も良く、活発で屋外で泥だらけになって遊ぶことが大好きだった。家に帰るとテレビの中のモーニング娘。を見よう見まねで踊っていたそうだ。



踊ることが大好きだった小林は通っている小学校でやっていたバトントワリングにも興味を持ち、小学3年生から始めた。

運動神経の良さは目立っていて、小学6年生の時の運動会ではリレーの選抜メンバーになり、ヒロインとなり颯爽とトラックを駆けていた。



中学校に進学すると、陸上競技部に入部。足の速さを生かして活躍するかと思ったが、いろいろ適性を図っていく中で、投てき競技にたどり着いた。


「小学6年生の時の運動会はヒロインでした(笑)。運動会があったので、走ることが大好きになった。その流れで中学では陸上競技をやろうと思っていました。 最初は長距離走、その後で短距離走をやりました。試しに砲丸を投げてみたら、他のみんなは4メートルくらいだったのに、自分は最初から6メートル投げることができた。周りの人にも『向いているよ』と言われたこともあり、投てきの砲丸投げで頑張ろうと思いました」


左から2番目が小林


当時通っていた中学の陸上競技部に投てきの専門コーチはいなかったため、本を買って読み、他の学校の生徒やコーチに話を聞きにいき、独学で砲丸投げを勉強した。結果は白山市内で1位、石川県内でベスト8までやりとげた。


高校は陸上競技の結果が良かったこともあり、石川県立松任高等学校への推薦がもらえた。

高校でも陸上競技一直線の生活。北信越大会での活躍。さらにはインターハイへの出場を目指して頑張ったが、砲丸投げでは力及ばず北信越大会が限界だった。

それでも腐らず練習は続けていたが、高校2年生の頃には「体育の先生になろうかな」と進路変更を考えていたそうだ。



3年生になると転機が訪れる。

高校の親友がやっていた自転車競技部の顧問からいきなり声をかけられたのだ。 「自転車競技、やってみない?」

いきなりの誘いに小林は驚いたが、挑戦してみたい気持ちはあったそうだ。


「中学から陸上競技を始めて、高校3年生までは一直線にやりたかった。自分の性格が器用なタイプではないこともわかっていたので、陸上競技と自転車競技の両立はできないと思った。

でも自転車競技に興味が湧いて挑戦してみたいってすぐに思えたんです。だから自転車競技部の先生には『陸上競技が終わってからでもいいですか。その後に自転車競技をやってみたいです』と伝えました」


陸上競技の大会を終えた夏から、自転車競技部の練習に参加。

自転車に乗り始めてしばらく経つと、「こういう職業もあるよ」とガールズケイリンを勧められたそうだ。

体育の先生になるつもりだった小林にとってガールズケイリン選手という職業は魅力的だった。


「人と違う職業への憧れがあったんです。変わったことをやりたい、ガールズケイリン選手って面白そうってなりました」

日本競輪選手養成所試験までの期間は短かかったが、現役合格を目指して、練習をスタートした。


自転車競技未経験だったが、適性試験ではなく技能試験での挑戦を選択。118期の試験はだれも知り合いのいないアウェーの状況で行われた。

そんな会場で声をかけてくれたのは同学年の下条未悠だった。


「試験が終わった休憩時間に下条さんの方から声をかけてくれた。ガチガチだったところだったので、下条さんに声をかけてもらって少しホッとできた。そこから下条さんは憧れの存在です」


下条未悠(写真左)と小林


準備期間1カ月で臨んだ118期の試験は1次試験で落ちてしまったが悲観することはなかった。

「もともと試験の雰囲気を感じるために受けるつもりでした。受かればラッキーくらいの気持ちだったので、落ちてもあまりショックではなかったんです。こんなに速い人がいるんだって感じ。来年、また頑張ろうって気持ちになりました」


120期の試験合格へ向けて、小林は気持ちを新たに動き出した。

高校を卒業してから顧問の紹介で後に師匠となる坂上樹大を紹介してもらい、練習を見てもらうこととなった。

プロの競輪選手の指導は厳しかった。とにかく基礎をたたき込まれたそうだ。


「樹大さんとの最初の頃の練習はバンク練習ではなく、ベースの力を付ける基礎練習。自転車競技経験のない私にしっかり基礎練習の大切さを教えてくれました。

固定自転車での練習はキツかった。精神的にも鍛えられました。とにかく毎日必死で練習をやって、樹大さんに認めてもらえるように練習に打ち込んでいました」


坂上樹大と小林


浪人時代は「絶対に競輪選手になる」と強い意志を持って練習に臨んだ。

その成果は少しずつ実り、120期の試験前にはタイムも出るようになり、少しだけ自信を持って養成所の試験に臨んだ。


「118期の1回目の試験は記念受験。120期の試験はダメなら競輪選手になることを諦めるって気持ちで挑みました。1次試験は自分の中でのベストは出せたんです」


手応えありの1次試験は思惑通り突破。しかし、2次試験は緊張でかたくなりすぎてしまい、残念ながら不合格となってしまった。

「120期の1次試験は受かったけど、2次試験はダメダメでした。面接で緊張してしまって…。質問されたことにうまく返答ができなかった。自分でも手応えが全くなくて、120期の試験結果の発表日はお母さんと一緒に見たんですが『ああやっぱり名前がないね…』って落ち込みました」


最後の試験と決めて臨んだ2回目の試験も不合格。

このまま競輪選手への挑戦を続けるかは家族会議になった。


「120期でダメだったら終わり。そういう感じだったので、自分から両親にもう1年挑戦させてくださいと伝えました。次の試験までは自分でバイトをしてお金を稼ぎながらやるから挑戦させてほしいとお願いしたんです」


娘の熱意に両親も押し切られ、もう一度、122期の受験を容認。

小林自身もこれが最後と決めて1年間頑張ることを決めた。

練習量は以前よりも追い込んだ。量も質も上げて、絶対に受かると心に決めて練習に打ち込んだ。

練習後は部品代など自転車にかかるお金を稼ぐため、100円ショップのダイソーでバイトをした。お金を稼ぐ厳しさも学んだ。



春先にはベストタイムも更新し、122期の試験合格に向けて順調に進んでいたが、夏にはタイムも落ちてしまい、体調も崩した。「このままじゃまた落ちてしまう」と焦ってしまったが、石川の大先輩・小嶋敬二がアドバイスをくれた。


「小嶋さんがとにかく1週間休みなさいと言ってくれました。その後も練習メニューを組んでくれて、その通りにやったらタイムも良くなっていった。

122期の試験前には小堺浩二さんの仕掛けに付いていくことができたんです。周りの選手のおかげでなんとか試験前にいい状態に持っていくことができました」


練習仲間のおかげで自信を手にして臨んだ122期の試験。3回目の挑戦は見事合格。 ようやく競輪選手の第一歩を踏み出すこととなった。


「試験の結果は樹大さんからの電話で知りました。母と2人で結果を見ていたんですが、ネットがなかなか更新されなくて。樹大さんからおめでとうって言われて、母と泣いて抱き合いました。だいぶ遠回りをしたけど、願いが叶ったって感じでうれしかったです」



1年間の養成所生活は「長かった」の一言。

しかし憧れの競輪選手になるための大事な1年間。しっかり練習に打ち込んで、力を付けていった。

在所成績は19人中15位。卒業記念レースでも予選2走が6着とふるわなかった。 勝負は卒業してからと気持ちを新たに切り替えて、地元へ帰ると先輩の北野武史からも激励されてデビュー戦に向けて練習に励んだ。


122期の同期と



後編は、8月23日(金)に公開予定です。

お楽しみに!



小林真矢香 Mayaka Kobayashi



誕生日:2001年3月18日

身長:167.1cm

期別:122期

登録地:石川県


松本直 Suguru Matsumoto



誕生日:1979年5月1日

所属:デイリースポーツ(競輪記者歴13年)


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