
“ミスターガールズケイリン”の異名を持つデイリースポーツ・松本直記者しか知らない、ガールズ選手の秘話や“いい話”を紹介します。

伊澤茉那は千葉県松戸市生まれ。2歳下の弟と2人きょうだい。小さいころから体を動かすことが大好きで、水泳、器械体操、新体操といろんな習い事に自分の意思で挑戦した。
中学校に進学すると、ソフトボール部に入部しサードを任された。運動神経の良さと足の速さを買われて、陸上競技の大会にも借り出された。
陸上競技の面白さを知ると、高校は陸上競技に熱心な千葉県立我孫子高校へ進学した。高校の3年間は陸上競技に打ち込んだそうだ。
「高校時代は部活中心の生活でした。顧問の先生にも良くしてもらったし、いい環境で部活動に打ち込めた。練習に合宿とハードだったけど楽しんでできました」

高校ではやり投げに挑戦。3年間打ち込んだ成果は高校3年の夏に県大会を突破してインターハイ出場を勝ち取った。
しかし目標にしていたインターハイで事件は起きた。
「高校時代はインターハイに出場することを目標にやっていた。県大会のころから肘に痛みはあったんですけど、なんとか県大会はクリアできた。でもインターハイの一投目で肘をケガしてしまったんです」

陸上生活はケガでピリオド。高校卒業後に帝京平成大学に進学。
帝京平成大学はスポーツ選手を裏で支えるスポーツトレーナーの分野があった。将来は資格をとってスポーツ選手のサポートを仕事にしようと思っていたそうだ。
「帝京平成大学を選んだのはスポーツトレーナーの仕事をしたいと思ったから。自分が高校3年生の時ケガをして、いろんなトレーナーさんに治療などでお世話になったから。でも入学してすぐに『あれ?何か違うな』って感じたんです。
自分の性格は負けず嫌い。自分は支える側ではなく、プレイヤーでありたいと思ってしまい、大学は1年で辞めました」
大学中退後はバイトに精を出した。高校時代からずっと続けていたレストラン(フォーハーツ・新松戸駅そば)は居心地が良く「ここでずっと仕事をするのもいいかな。接客業も嫌いじゃないし」と思う時期もあったと振り返る。

転機は2020年の春。新型コロナウイルスの影響で社会が自粛ムードになった時だった。
伊澤が働いていたレストランも休業になり、仕事がなくなってしまったのだ。
「コロナの時は大変でした。飲食店を2軒はしごでアルバイトしていたので(笑)。そんなタイミングで友だちとお茶をしている時にガールズケイリン選手とボートレーサーをすすめられました。
元々公営競技の競馬が好きだったんです。中央、地方、どちらも楽しんでいました。競馬が好きだからジョッキーになりたいなって思っていたんですけど、年齢で無理だった。そしたら友だちが『競輪かボートレースは?』ってすすめてくれました。友だちは軽いノリで言ってくれたのかもだけど、自分はやってみたいとなりました」。
1回目のボートレーサー養成所の試験は3次試験まで進んだが結果は不合格。2回目の挑戦でボートレーサー養成所の試験に合格した。
やる気に満々で福岡県にあるボートレーサー養成所に乗り込んだが、訓練が始まると思い通りにはいかなかった。
「訓練でボートに乗った時、自分が下手くそ過ぎたんです。他の人ができることができなくて。人生初めての挫折を味わい、ボートレーサー養成所を1カ月で退所することになりました」
伊澤茉那の人生で初めての挫折だった。
小さなころから何をやっても器用にできていたはずなのに、エンジンを使うボートはうまく扱えなかった。
逃げ出すように帰ってきてから、地元の松戸で世話になっていたレストランのバイトに戻ったが、モヤモヤした感情はいつまでも消えないままだった。

「松戸に帰ってきて、アルバイトはしていたんですけど、ボートレーサー養成所から逃げ出していたことを後悔していたんです。できないから投げ出してしまったボートレーサー養成所のことが頭から離れなかった。
できなくても試験まではやり切って、試験の結果で退学になるなら気持ちの整理もできたと思うけど、自分から自主的に退学することを選んだことがずっと気になっていたんです」
レストランでのアルバイトは職場の環境も良く、仲間にも恵まれて楽しかったが、伊澤の心の真ん中にある「負けず嫌い」の気持ちが自分自身に問いかけてきたのだ。
「このまま(ボートレーサー養成所を)逃げたまま終わっていいのか?って思いがずっとありました。松戸に競輪場があるのは知っていたので、競輪への挑戦を始めたら後悔の気持ちがなくなるのかなって思い、動き出すことにしました」
2022年6月松戸でGⅢ開催があり、バイト終わりに新松戸から自転車を漕いで北松戸にある競輪場へ駆けつけた。
間に合ったのは最終日の最終レース。優勝した脇本雄太の走りに衝撃を受けた。
「挑戦する前に自分の目で確かめようと思い、初めて松戸競輪場へ行きました。バイト終わりだったので、見ることができたのは最終レースだけだったけど、脇本雄太さんのスピードにビックリしました。『こんなに速いの』って衝撃を受けました。
その日家に帰ってから親にも伝えて、競輪に挑戦したいモードに入りました」

ボートレーサー養成所を逃げ出したことの後悔を払しょくするため、ガールズケイリンへの挑戦を決めると迷いはなかった。
ネットで競輪選手になるための試験方法を調べて、未経験でもチャレンジできる適性試験の存在を知り、トレーニングをスタート。日本競輪選手養成所が主催するトレーニングキャンプにも参加して、秋の試験に向けて準備を進めた。
「トレーニングキャンプに参加できてよかったです。そこで試験で使うワットバイクのこともようやく理解したので。
あと一緒に参加している人から師弟制度があることを聞きました。『選手を目指すなら師匠がいないと難しいよ』って教えてもらったんです。そんなことは知らなかったので、松戸に帰ってからすぐ選手会の愛好会に連絡をしました。
自分は運がよく、次の日には染谷幸喜さんが面倒を見てくれることになりました。染谷さんも適性で日本競輪選手養成所に入ったので、いろいろ教えてくれました。
練習を始めてからは恐ろしいくらいワットバイクの数値が出なかったんです。染谷さんは『辞めたほうがいい。(ワットバイクの)数値が悪いし、厳しいと思う。受からないと思うよ。ケガも多い仕事だし、女の子だし競輪じゃなくてもいいんじゃない』とすごく言われました」
伊澤茉那はもう逃げない。ボートレーサーを諦めてしまった後悔を乗り越えるにはガールズケイリン選手になるしかなかった。
秋の適性試験まで練習を繰り返し、一歩ずつ成長。1回目の挑戦で、日本競輪選手養成所126期の合格を勝ち取った。

養成所で使用するフレームは染谷幸喜、そして後に師匠となる鈴木浩太が用意してくれた。ガールズケイリン選手から使っていないフレームを買い取り、伊澤のためにセッティングも出してくれたそうだ。
「初めて自分の自転車に乗った時は怖かった。トレーニングキャンプでガールズケイリン用のフレームに乗る機会は少しあったけど、『ブレーキないの!』って感じでした。
ただ慣れてくると楽しかった。競輪の自転車は自分の力で前に進む。ボートレースの時とは違って、『こっちのほうが好き』って思いました」
後編は、10月25日(金)に公開予定です。
お楽しみに!
伊澤茉那 Mana Izawa

誕生日:1997年1月11日
身長:158.0cm
期別:126期
登録地:千葉県
松本直 Suguru Matsumoto


誕生日:1979年5月1日
所属:デイリースポーツ(競輪記者歴13年)