

一人っ子だったが、体を動かすことが大好きな活発な女の子で、小学生の時からバレーボールに熱中した。
中学校も地元岩見沢市内の学校に進学。バレーボール部の仲間と一緒に進学して、そのまま中学でもバレーボール部を継続した。

父から「足が太いから競輪選手、向いているんじゃない」と言われたことがきっかけだった。
その時ちょうどガールズケイリンを開催していて、小林莉子さんが走っていて、1着を取ったところを見た記憶があります。あとは場内の声援やヤジがすごくて興奮しました。すぐに競輪選手になりたいってスイッチは入りましたね」

中学生になるとバレーボールの部活動と並行してロードレースに乗り始めた。バレーボールの試合がないタイミングではロードレースの大会に出場するなど、アクティブに動いて、競輪選手になるための準備を進めていった。

「北海道で自転車競技をするなら函館大谷高校だと思いました。近くに函館競輪場があるので、バンクで練習もできる。競輪選手育成のホワイトガールズプロジェクトもあるし、函館大谷高校へ行くことに迷いはなかったです」

元選手の大森芳明氏(41期・引退)が自転車競技部の指導とホワイトガールズプロジェクトに携わっていることもあり、函館大谷高校への入学が競輪選手になるための最短ルートだった。

大森芳明の息子・大森慶一と
「高校にあったワットバイクが壊れてしまったんです。函館は冬になるとバンクで練習することができないし、室内練習でワットバイクは必要だったんです。どうすればワットバイクが手に入るか考えた時、母からクラウドファンディングの制度を教えてもらいました。
SNSに投稿すると、日本全国の人から支援してもらえました。現役の競輪選手からも反応があってうれしかった。児玉碧衣さんがリツイートしてくれたら、一気に支援が増えたんです。三谷将太さんからは練習着をプレゼントしてもらいました。それ以外にもいろんな方から反応があって本当に助かりました。児玉碧衣さんと開催が一緒になったことはあるんですけど、まだ直接お礼を言えていないので、今度どこかの開催で一緒になったら感謝の気持ちを伝えたいと思います」

高校時代に自転車競技大会である程度の実績を残していたこともあり、実技の不安はあまりなかったが、2次試験の学科は全く自信がなかったそうだ。
1次試験の合格が分かってからも大変でした。2次試験の学科は本当に自信がなかった。高校3年生の4月から公文に通って小学生と一緒に勉強していましたから。高校入試も特待生だったので、中学3年生の時に受験勉強もしなかった。養成所の2次試験前の勉強期間は本当にキツかったですね」


124期の同期と
自転車競技経験があったので、ある程度の成績を残すかと思ったが、在所成績は16位。卒業記念レースは決勝に乗ったが思うような結果を残すことはできなかった。
「養成所にいる時、一番電話をしたのはひすいさんだった。ひすいさんはアドバイスもくれるし、どんな時でもほめてくれた。『養成所で先行できなかったら、デビューしてから先行はできない。養成所ではいくら負けてもいいから頑張って』と励ましてくれました」

畠山ひすいと神戸
「自分は競輪選手になると決めた日から大好きなチョコレートを食べることをやめました。プロデビューするまでチョコレートを食べないって決めたので、養成所の自由時間のお菓子パーティーの時間が地獄のようでした。
ストレスもあり、チョコレートを食べたかったけど、養成所に入所した時、同期や教官の前で『私は選手になるまでチョコレートを食べません』って宣言しちゃったんです。だからいつもお菓子パーティーをする時は同期のみんながうらやましかったですね」

身長:154.0cm
期別:124期
登録地:北海道


誕生日:1979年5月1日
所属:デイリースポーツ(競輪記者歴13年)