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<前編>病気を経験し再起を図る神戸暖稀羽・1周駆けて1着に残れる選手に! 【松本直のガールズケイリンちょっとイイ話】

特別企画 2025.02.07



“ミスターガールズケイリン”の異名を持つデイリースポーツ・松本直記者しか知らない、ガールズ選手の秘話や“いい話”を紹介します。




神戸暖稀羽は北海道の中央に位置する岩見沢市の出身。

一人っ子だったが、体を動かすことが大好きな活発な女の子で、小学生の時からバレーボールに熱中した。

中学校も地元岩見沢市内の学校に進学。バレーボール部の仲間と一緒に進学して、そのまま中学でもバレーボール部を継続した。


「バレーボールの練習はめちゃくちゃ楽しかった。ゆるい部活ではなかったから大変だったけど、思い出も多いし、団結力も高かった。小学4年生から本気で何かに打ち込む経験ができたことがなにより。いい経験ができました。今でもバレーボール時代の仲間とはつながっているし、かけがえのない存在ができました」



ガールズケイリンとの出会いは小学6年生の時のことだった。

父から「足が太いから競輪選手、向いているんじゃない」と言われたことがきっかけだった。


「家族でごはんを食べている時、父から言われました。両親ともに競輪は知らなかったのに(笑)。父はいろんな仕事を私に教えてくれたんです。その中の一つが競輪選手だった。その時はなんとも思わなかったけど、小学6年生の時の家族旅行で函館に行き、競輪場にも遊びに行きました。

その時ちょうどガールズケイリンを開催していて、小林莉子さんが走っていて、1着を取ったところを見た記憶があります。あとは場内の声援やヤジがすごくて興奮しました。すぐに競輪選手になりたいってスイッチは入りましたね」



競輪選手になると決めたあとはすぐに行動へ移した。

中学生になるとバレーボールの部活動と並行してロードレースに乗り始めた。バレーボールの試合がないタイミングではロードレースの大会に出場するなど、アクティブに動いて、競輪選手になるための準備を進めていった。



高校は地元岩見沢を離れて、函館市内にある函館大谷高校へと進学した。

「北海道で自転車競技をするなら函館大谷高校だと思いました。近くに函館競輪場があるので、バンクで練習もできる。競輪選手育成のホワイトガールズプロジェクトもあるし、函館大谷高校へ行くことに迷いはなかったです」



函館大谷高校の自転車競技部は歴史もあり、競輪選手を大勢輩出している名門高だ。

元選手の大森芳明氏(41期・引退)が自転車競技部の指導とホワイトガールズプロジェクトに携わっていることもあり、函館大谷高校への入学が競輪選手になるための最短ルートだった。


「高校は下宿生活だったので、最初はキツかったですね。でも両親が岩見沢からごはんを作りに来てくれたりして、サポートしてくれました。練習はすごく楽しかった。ホワイトガールズプロジェクトに参加させてもらうことになり、競輪場でいっぱい練習をさせてもらえたし、先輩選手たちとも練習することができた。充実した3年間を過ごせました」


大森芳明の息子・大森慶一と


高校時代の神戸はクラウドファンディングにもチャレンジした。

「高校にあったワットバイクが壊れてしまったんです。函館は冬になるとバンクで練習することができないし、室内練習でワットバイクは必要だったんです。どうすればワットバイクが手に入るか考えた時、母からクラウドファンディングの制度を教えてもらいました。

SNSに投稿すると、日本全国の人から支援してもらえました。現役の競輪選手からも反応があってうれしかった。児玉碧衣さんがリツイートしてくれたら、一気に支援が増えたんです。三谷将太さんからは練習着をプレゼントしてもらいました。それ以外にもいろんな方から反応があって本当に助かりました。児玉碧衣さんと開催が一緒になったことはあるんですけど、まだ直接お礼を言えていないので、今度どこかの開催で一緒になったら感謝の気持ちを伝えたいと思います」



高校3年生になると、卒業後の進路は日本競輪選手養成所一択。

高校時代に自転車競技大会である程度の実績を残していたこともあり、実技の不安はあまりなかったが、2次試験の学科は全く自信がなかったそうだ。


「1次試験は自転車に乗っていたので、大丈夫かなと思っていたけど、試験会場に行ったらビックリしました。タイムトライアル試験の順番が北日本からで、自分が1番手。あの時は人生で一番緊張しましたね。試験を受けに来た人がみんな見ているし、ガチガチに緊張した。あの緊張を越える瞬間は今のところない(笑)。

1次試験の合格が分かってからも大変でした。2次試験の学科は本当に自信がなかった。高校3年生の4月から公文に通って小学生と一緒に勉強していましたから。高校入試も特待生だったので、中学3年生の時に受験勉強もしなかった。養成所の2次試験前の勉強期間は本当にキツかったですね」



塾に通って必死に勉強をしたかいもあり、124期の試験は合格。高校卒業のタイミングで養成所へ進むこととなった。


「合格発表は母と一緒に見ました。母が心配して函館に来てくれて。自分の名前を見つけた時はうれしかった。試験は受かるまでやろうと思っていたけど、1回目で合格できてホッとした。また1年間勉強しないといけないし、それだけは嫌だったので」


124期の同期と


2022年5月、伊豆市にある日本競輪選手養成所に入所。124期生として1年間の生活が始まった。

自転車競技経験があったので、ある程度の成績を残すかと思ったが、在所成績は16位。卒業記念レースは決勝に乗ったが思うような結果を残すことはできなかった。


「養成所はキツかったですね。函館のホワイトガールズプロジェクトは、のびのび楽しく練習させてもらっていた。養成所では23人の同期でタイムを競い合い、順位を付けられる。楽しく練習をしていた函館との違いに慣れることができず、人生で初めて自転車の練習が楽しくないと思ってしまいました」


ネガティブな気持ちになっていた神戸に救いの手を差し伸べたのはホワイトガールズプロジェクトの1年先輩・畠山ひすい(122期)だった。

「養成所にいる時、一番電話をしたのはひすいさんだった。ひすいさんはアドバイスもくれるし、どんな時でもほめてくれた。『養成所で先行できなかったら、デビューしてから先行はできない。養成所ではいくら負けてもいいから頑張って』と励ましてくれました」


畠山ひすいと神戸


訓練以外の時間は同期の仲間たちと楽しく過ごせたことも振り返ってくれた。

「自分は競輪選手になると決めた日から大好きなチョコレートを食べることをやめました。プロデビューするまでチョコレートを食べないって決めたので、養成所の自由時間のお菓子パーティーの時間が地獄のようでした。

ストレスもあり、チョコレートを食べたかったけど、養成所に入所した時、同期や教官の前で『私は選手になるまでチョコレートを食べません』って宣言しちゃったんです。だからいつもお菓子パーティーをする時は同期のみんながうらやましかったですね」



■後編はコチラ



神戸暖稀羽 Nonoha Kanbe



誕生日:2003年11月5日

身長:154.0cm

期別:124期

登録地:北海道


松本直 Suguru Matsumoto



誕生日:1979年5月1日

所属:デイリースポーツ(競輪記者歴13年)


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