NEWS ニュース

<前編>スノーボードから転向、妊娠・出産を経て復帰したママさんレーサー・猪頭香緒里【松本直のガールズケイリンちょっとイイ話】

特別企画 2025.05.02



“ミスターガールズケイリン”の異名を持つデイリースポーツ・松本直記者しか知らない、ガールズ選手の秘話や“いい話”を紹介します。




猪頭香緒里は岡山県真庭市で、2歳上の兄と、7歳下の妹と3人きょうだいで育った。



真庭市は岡山県の北部にあり鳥取県と県境の自然の多い土地。小学校まで5キロ歩いて通学する山の中で育った。特に運動はしていなかったが「小学生の頃、忘れ物をすると1時間かけて家まで歩いて取りに行く。毎日の通学に加えて、忘れ物を取りに帰ることも運動になって自然と体力が付いたのかもしれないですね」と笑いながら話す。



中学校は近隣に学校がなくバス通学。高校では剣道部に入ったが熱中するほどではなかった。

「高校は進学校。勉強メインに頑張っていた。この頃は幼稚園と小学校の先生になりたかった。大学に進学して、教員免許を取って小学校か幼稚園の先生になるつもりでした」


大学は津山市にある美作女子大学(当時・現在は美作大学)に進学。小学校の先生になるための第一歩を踏み出した。 しかし自然の多い真庭に比べると、刺激的なことが多くなっていった。

「津山もそんなに都会ってわけではないけど、地元にないコンビニもあるし、都会だったんです(笑)。いろいろ楽しくて、はじけちゃいますよね。ちょうどその頃、格好いいなって思ったお兄さんがスノーボード好きって聞いたんです。私はスノーボードをしたこともないのに『私もスノーボード好きです』って話をしたんです。本当に軽いノリでスノーボードを始めました」



動機はどうあれ、スノーボードと出会うと、その魅力に取りつかれ、大学時代はスノーボードに熱中した。いつの間にか、幼稚園と小学校の先生になる夢は小さくなっていき、スノーボードをもっと広めたいという夢が大きくなっていったそうだ。


「大学時代はスノーボードばかりしていました。4年生になって就職先をどうするかって時期になった時、先生になることよりもスノーボードをもっと広めるような仕事をしたいという気持ちになっていました。就職活動中にエフエム岡山の開局のタイミングで新入社員を募集していたんです。学校の先生に「合うんじゃない」と言われて応募して社員になることができたんです」


エフエム岡山で仕事をしながら、休みの日はスノーボード。そんな社会人生活を夢見ていたが、現実は甘くなかった。 「開局したてのラジオ局。忙しいですよね。番組制作や広告を取りに行ったりと。まったくスノーボードをできるような時間がなくて、これは違うなと思って仕事を辞めました」



スノーボードへの情熱は高まるばかり。仕事を辞めると、すぐに長野県白馬へ山ごもり。スノーボードにどっぷりつかる生活をスタートさせた。

「せっかくスノーボードを始めるし、何か目標を持ってやろうと思って山にこもった。最初に立てた目標はスノーボードのインストラクターの資格を取ることにした。地元の岡山のスキー場には親子のスキースクールはあったけど、親子のスノーボードのスクールはまだなかった。それならば自分が資格を取って、岡山でスノーボードを広めたいと思って資格を取ることを頑張りました」



猪頭のスノーボードへの思いは強く、資格試験は1月に合格。春までかかると思っていたがあっさりインストラクターへの道が開けてしまった。余った時間をどうしようかと考えている時にスノーボードクロスの大会への出場を決めた。 「インストラクターの資格を速攻で取れてしまった。まだ1月でシーズンは長いしどうしようってなった時、こもっていたスキー場でスノーボードクロスの大会があったんです。そしたら、初出場でまさか優勝できたんです。すごく楽しかった。今までスポーツで1番になったことなんてなかったし、快感だった。そこからスノーボードクロスにはまっていきました」



初めて出場したスノーボードクロスの大会で優勝。今まで味わったことのない快感を体験し、もっと深くスノーボードクロスと向き合いたい。そう思っていた猪頭の背中を周りの仲間たちも押してくれた。

「大会で優勝したあとに、地元の友人から『インストラクターは資格を取れば誰でもできるけど、スノーボードクロスのプロは誰でもなれるものじゃないよ』って言われたんです。そうだなって自分でも思い3年頑張ってみようとなりました。3年でプロになれなかったら諦めようと思って、そこからプロになるためにスノーボードクロスを頑張りました」



当時のスノーボードクロスのプロへなるためには地区の大会で上位入賞、その先にある全国大会で上位入賞と結果を出し続けることでプロのライセンスが取得できる仕組みだったそうだ。

プロ資格を取れたタイミングと同時期の、2006年トリノ冬季五輪から男女のスノーボードクロスが新たに追加された。


「オリンピック種目にスノーボードクロスが入ったことは大きかったですね。自分と同じ時期にプロを目指して競っていた選手たちが、オリンピックに出場している。テンションが上がりました。オリンピックに出たいって思った。その時に次の目標として3年でナショナルチームの強化指定メンバーに入るという目標を立てました」


2010年のバンクーバー冬季五輪出場を目指してスノーボードクロスに打ち込み、ナショナルチーム入りを果たすと、ワールドカップなど海外の大会に遠征することもあった。夏は南半球のオーストラリアやニュージーランドでトレーニングとスノーボード漬けの生活を送っていた。しかしナショナルチームに入ることはできたが、バンクーバー五輪出場メンバーに選ばれることはなく、スノーボードクロスを続けるか考える時期に入った。



「バンクーバー五輪のメンバーに選ばれなかった時点で今後どうするかを考えました。シーズンが終わると、遠征費などを稼ぐためにバイトをするんですが、この年は瀬戸内国際芸術祭のバイトをしていました。海外遠征をしていたこともあり、多少ですが英語を話せることもあったので。

玉野市の宇野港付近でバイトをしていたんです。岡山市内から1時間くらいかけて通っていたら、一緒にバイトをしていた人から「部屋が余っているし、家に住んで通えばいいよ」って言われたんです。その声をかけてくれた人が宇野港にある大阪屋食堂さんの娘さんだったんです。大阪屋食堂は岡山の競輪選手がよくごはんを食べにくるお店。世話になっているうちに店主のお父さんから「せっかくスノーボードでスポーツを頑張っていたんだし、ガールズケイリンが始まるのでやってみたらどう?」って声をかけられました。

自分は競輪も知らないし、なんのことか分からなかったけど、昼間に競輪選手がごはんを食べにきて紹介してもらいました。その人が後に師匠になる大前寛則さんと三宅伸さんだったんです。そこから話が進んで、大前さんが師匠になってくれることになり選手をやってみようかなとなりました」


大前寛則、猪頭、三宅伸


スノーボードクロスを引退して競輪選手を目指す決断を後押ししたのは当時の彼氏だったそうだ。

「バンクーバー冬季五輪の代表に選ばれず、4年後の次のソチ冬季五輪を目指すかってなった時、やっぱり年齢が気になった。スノーボード中心の人生を送っていたので彼氏を待たせている部分もあったんです。そうしたら彼から『スノーボードは藤原香緒里(旧姓が藤原)でいったし、競輪は猪頭香緒里でいくか』って言ってくれたんです。プロポーズですよね。私もうれしかったです。8月8日に入籍をして猪頭香緒里として競輪学校(現・日本競輪選手養成所)の願書を提出しました」


104期の日本競輪学校の試験はスノーボードクロス時代の実績が評価され、適性試験の2次試験(学科、面接、作文)から。試験は難なく突破して競輪選手としての第一歩を踏み出した。

「願書を提出してから競輪学校に入学するまではバタバタでした。プロポーズをされてから入籍をして、結婚式をして、新婚旅行に行ってと。もし合格して競輪学校に入ったら1年間会えなくなるし詰め込みました。104期の合格発表は新婚旅行中のオーストラリアで確認しました。新婚旅行から帰ってきて、自転車などの準備をしていきました」


104期の同期と



後編は、5月9日(金)に公開予定です。

お楽しみに!



猪頭香緒里 Kaori Ito



誕生日:1976年12月12日

身長:165.0cm

期別:104期

登録地:岡山県


松本直 Suguru Matsumoto



誕生日:1979年5月1日

所属:デイリースポーツ(競輪記者歴13年)


同じカテゴリーの最新ニュース

    1. ホーム
    2. ニュース
    3. 特別企画