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<前編>9年連続ファン投票1位!ガールズケイリンのシンボル・児玉碧衣 女子オールスター競輪優勝で恩返しを 【松本直のガールズケイリンちょっとイイ話】

特別企画 2025.08.06



“ミスターガールズケイリン”の異名を持つデイリースポーツ・松本直記者しか知らない、ガールズ選手の秘話や“いい話”を紹介します。




児玉碧衣は福岡県大野城市の出身。妹と2人姉妹で小さい頃から活発。遊ぶことが大好きで公園でドッジボールやサッカーをして元気いっぱいに動き回っていた。




バレーボールとの出会いは小学4年生。近所の友だちに誘われてバレーボールクラブに参加した時から。クラスの中でも高身長だった児玉はバレーボールで才能が開花。運動神経の良さもあり、中学から高校に進学する時は私立筑陽学園高校へ特待生で入学することとなった。筑陽学園高のOBにはKEIRINグランプリ1勝、GⅠを2勝した井上昌己がいる。




「バレーボール、高校に入るまでは楽しかったですよ。でも高校のバレーボール部は練習が厳しすぎた。バレーボールの監督が小学生の時のバレーボールクラブの後輩のパパ。その時はすごく優しくて『将来はうちの高校に来てバレーボールを一緒にやろうね』って誘われていた。

高校受験の時に勉強もしたくなかったし、特待生で行けるならと思って筑陽学園に行ったけど、練習が厳し過ぎて付いていくだけで必死。楽しくバレーボールをやるって感じではなかった。苦しい高校生活でした」




高校には特待生で進学したため、途中で部活を辞めることもできなかった。厳しい練習をなんとかこなす日々が続いた。もうバレーボールは続けたくない。そんな気持ちしかなかった頃、母がヤフーニュースで「女子競輪復活」の記事を見つけてきて、部活動に気が乗らない娘に勧めてきた。


児玉自身も高校卒業後の進路で迷っていたこともあったため「バレーボールはもうやりたくない。勉強もしたくない。やりたいこともないし、とりあえずやってみるか」

そんな不純な動機でガールズケイリン選手への第一歩を踏み出した。


「物心が付いた保育園の時から将来の夢とか、やりたい職業がなかった。お母さんがガールズケイリンを勧めてくれるまでは特に勉強をしなくても入れる大学に行って、とか深いことはなんにも考えていなかった。でもお母さんがガールズケイリンを勧めてくれてからは競輪選手をやってみるかって感じになった。だから進路相談の時に志望校は第一希望に日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)とだけ書いて、第二、第三希望は白紙のまま提出しました」



児玉碧衣の母は娘の運動神経の良さを一番知っていた。この当時は全くの未知数だったガールズケイリンだったが、娘が輝ける場所になると信じていたのだろう。

その後の母の行動は早かった。筑紫野市にあるJKAに問い合わせをすると、当時の福岡支部支部長をしていた藤田剣次(85期)を紹介され、娘を連れて久留米競輪場に行くことになった。

あいさつを済ませて、藤田剣次に弟子入りをして競輪選手を目指すこととなったが、児玉碧衣のやる気のスイッチはまだ入らなかった。


「当時はバレーボールからのがれるためのガールズケイリンって意識だったんですよね。自分の意思で始めたわけじゃないからフワフワしていた。高校3年生の夏にガールズサマーキャンプ(現・トラックサイクリングキャンプ)に参加したのも、バレーボール部の合宿の日程と被っていたから。ラッキーって思いましたよ。一番合宿がキツかったから(笑)。

夏休みが終わって部活を退部してからも競輪選手に絶対なるんだって感じにはならなかった。108期の試験の前後、高校の授業が終わってから久留米競輪場に行って練習するって親には話していたんですけど、競輪場には行ってなかった。高校の最寄り駅からとりあえず西鉄久留米駅までは行くけど、競輪場には行かず駅の中でずっと時間をつぶしていた。夜になってまた電車に乗って自宅に帰る。こんな生活を何カ月かしていました。同級生は勉強をしたりバイトをしたりしているのに何をしているんだろうって感じでした」



師匠の藤田も練習に来ない児玉のことを心配して電話をすることもあったが、児玉は着信拒否。藤田は児玉の母に電話をしたこともあったそうだ。


「師匠からの電話は練習に行かない気まずさもあって出られなかった。そうするとお母さんのところに掛けてくる。たまたまお母さんが昼寝しているタイミングで師匠から電話があった。練習に行っていないことがバレたらヤバいので、お母さんの携帯の着信履歴から師匠の着信を消去したこともありました。昼寝をしていてラッキーでしたね(笑)。私があまり練習に行っていないことに勘づいたのか、お母さんに何度か久留米競輪場まで車で送られて、見届けられたこともありました」


それでも高校3年生の秋、108期の試験を適性で受験。1次、2次とトントン拍子でクリア。2014年の春、競輪学校へ入学を果たした。


試験に合格し、競輪学校に入る前も久留米競輪場での練習には多くて週1回行くかどうかの状態だった。

108期の適性試験合格組の事前研修も着替えしか持たずに、伊豆・修善寺の競輪学校の門を叩いた。


「両親と競輪学校に移動している時、また自分の携帯に師匠から着信があった。電話に出なかったら今度はお母さんに電話を掛けてきた。さすがに目の前だったのでお母さんが電話に出て、自分に代わったら師匠から『お前、今どこにいる?今から競輪学校に入学するのに、自転車が久留米にあるぞ』って言われて。今思うと、考えられないですよね。これから競輪学校で1年間訓練をするのに自転車を持って行かないなんて。師匠に自転車を競輪学校に送ってもらって、なんとか入学することができました。当時の自分は少しどうかしていたんだと思います」


108期の同期と


入学前の事前研修では、風呂場で板根茜弥と水の掛け合いをして転び、足を8針縫う大ケガを負った。「適正組は技能組より1週間くらい長く競輪学校にいないといけなかったけど、ケガで1、2日くらいしか自転車に乗っていなかった。ケガをしたのは事前研修の3、4日目くらい。いたねー(板根茜弥)とも大して仲良くなかったのに、頭がおかしいですね(笑)」と振り返る。他の生徒の中には人生をかけて入学した者もいたが、児玉にはそんな気持ちはまだ備わっていなかった。


それでも天性の才能なのか自転車に乗るとメキメキと頭角を現し、在校成績は2位。2015年3月に静岡で行われた卒業記念レースで準優勝と好成績を収めた。



「自転車競技は未経験だったけど、自転車には思ったより早く乗れるようになりましたね。在校中はとにかく楽に過ごすことを考えていました。強くなりたいとかは全くなくて、どうやってさぼるかを考えていました。今思うとかなりの世間知らずですけどね。それでも同期との競走訓練とかで勝ててしまったし、『やれるな』みたいに勘違いしていました」


107期・108期の同期と


デビュー戦は2015年7月の松戸。予選1は周回中の7番手から打鐘を合図に先頭に出ると、あとはマイペースの先行勝負で1着。予選2は最終ホームで田中まいをたたいて先行。2着に8車身の差を付けて1着。連勝で臨んだ決勝は山原さくらの逃げをまくれず2着の準優勝に終わったが、内容の濃い3日間の競走でガールズケイリンファンに強い衝撃を与えた。


「デビュー戦の松戸、緊張はなかったですね。それよりも高校時代にアルバイトもしたことがなかったし、3日間の開催が終わって賞金をもらった時に驚いた。『こんなに賞金をもらえるんだ。優勝したらもっともらえるのか!』って感じでした」


同年8月の弥彦では3連勝で初優勝を達成。1年目は7月からの半年間だったが、39走して1着が32回、優勝が8回とガールズケイリンに旋風を巻き起こした。



翌2016年3月の名古屋ではガールズケイリンコレクションに初参戦(3着。優勝は山原さくら)。同年春に初めて参加したファン投票では2位(1位は高木真備)。1年間を走り通したことで年末の大一番・ガールズグランプリにも初参戦(3着。優勝は梶田舞)と順風満帆。


それ以降もガールズケイリンのビッグレースには常に参加。あとはタイトル奪取も時間の問題かと思ったが、ガールズケイリンコレクション初優勝までは少し時間がかかってしまった。

3年目の2017年はビッグレースで勝てない児玉がレース後に悔し涙を流す場面を見かけることが多かった。


「自分のことだからよく分かる。私、どんな時も楽なほうに逃げてしまう性格です。ガールズケイリンに関してはなんとなく勝ててしまっていたので、深く考えることをしていなかった。考えることが苦手だし、『なるようにしかならないやん』って感じでした。 でもレースを重ねていくと、普通開催だと勝てるのに、大きい開催だと勝てない。大した練習もしていないくせに負けたら一丁前に悔しがる。今、当時の自分に言ってやりたいですよ。『お前、大した練習もしていないのに悔しがるなよ。しょうもない』って(笑)。師匠にも『お前、そんな悔しがるほど練習していたか?』って言われました。考えていることとやっていることが一致せず、感情だけが先走りしていたんでしょうね。精神的に不安定だったと思います」



■後編はコチラ



児玉碧衣 Aoi Kodama



誕生日:1995年5月8日

身長:168.6cm

期別:108期

登録地:福岡県


松本直 Suguru Matsumoto



誕生日:1979年5月1日

所属:デイリースポーツ


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