「自分が勝つ」のではなく「みんなで勝つ」 平原康多選手(埼玉県・87期)

2024.07.24

男女合わせて約2,400名いる競輪選手には、さまざまな経歴や趣味を持った選手がいます。『推すスメ!選手インタビュー』では選手個々のプロフィールを、インタビューを通してひもといていきます。

 

今回は埼玉県・87期の平原康多選手にインタビューしました。

2002年8月にデビューし、まもなく23年目を迎える平原選手。GⅠ優勝9回、『KEIRINグランプリ』出場13回と、その成績は競輪界トップクラス。人柄は常に謙虚で仲間や後輩たちから慕われ、ファンからも愛され続けている選手です。

2023年は自身でも「初めての経験」だというケガに悩まされた1年でした。今年5月、GⅠ『日本選手権競輪』を制し完全復活。その背景にあったことや仲間やファンへの思いを語ってくれました。

 

 

 

必要な1年だったのかもしれない

昨年はケガの続いた1年でした。4月の武雄記念で落車して肩甲骨を骨折。1カ月半で復帰して「わりと走れるな」と感じていたのですが、『高松宮記念杯競輪(GⅠ)』3日目に落車してしまい、左足の股関節を捻挫しました。すごく痛かったんですが、無理に練習を続けていたら、今度は『グロインペイン症候群』という聞いたこともない症状になってしまって…。

その症状になって、腰からペダルを踏み続けていたら、さらに『椎間板ヘルニア』を発症させてしまいました。

休んで、しっかり治療してから練習を再開したほうがよかったのですが、“S級S班”であることや「お客さんの前で頑張らなきゃ」という気持ちが強くて。「走りながら治す」と決めたものの、なかなか状態は良くはなりませんでした。

 

いままでは落車が続いても、自分のバランスを崩さずに復帰できていましたが、昨年は「このままプロ選手としてやっていけるのかな」と思うほどヤバかったです。

ここまでのケガは初めての経験でした。そんな状態でも諦めずにやっていたので、メンタルは本当に鍛えられました。いま思えば、“必要な1年”だったのかもしれませんね。

 

 

復活のダービー制覇

ダービー(『日本選手権競輪(GⅠ)』)を優勝した時の歓声や空気感には、鳥肌が立ちました。バンクの外側からも内側からも本当にすごい歓声でしたし、あの雰囲気を味わえることは、「もう一生無いかもしれない」と思ってしまいましたね。

1年以上も“思い通りのレース”ができていなくて、「ファンの人たちに迷惑をかけ続けてきた」という葛藤があって。それでも、いつも埼玉から応援に駆けつけてくれる人たちがいたんです。

表彰式でその人たちが号泣する姿が見えて…。自分も我慢していた涙があふれてしまいました。

 

 

自分ひとりのメンタルだけでは、到底耐えられなかったと思います。一緒に練習してくれる仲間、“ライン”を組む仲間に支えてもらったからこそ、いままで戦ってこられました。

「自分が勝つ」というよりも「みんなで勝つ」。仲間の勝ちも喜べるような関係で競輪をやりたいので、いまの自分にはそう思える仲間がいて幸せです。

 

ダービーの決勝も“ライン”を組んだヨシタク(吉田拓矢)、タツオ(武藤龍生)のどちらが優勝しても、同じような気持ちでたたえられたと思います。

自分の目標は常に変わらず、GⅠで優勝すること。体の状態も良くなってきたので、さらに脚力を上げて、これからもずっとGⅠ優勝を目指し続けていきたいと思います。

 

『日本選手権競輪(GⅠ)』決勝のゴール後の吉田拓矢選手と平原康多選手

 

 

関東の先輩方

中学3年生のとき、競輪選手だった父親(平原康廣さん)が、大ケガをして引退したんです。その時に「バトンタッチだ」と競輪選手を目指そうと思いました。そのことを父親に伝えたら一言、「やめとけ」と言われましたが(笑)。

自分も父親になって、中学1年生の息子から「競輪選手になりたい」と言われたら、同じことを言うと思います。本人はいまのところ、(競輪選手に)興味は無さそうですけどね。

 

 

高校で自転車競技を始めて、3年生でタイムが出るようになりジュニア世界選手権にも出場しました。でも、競輪学校(現:日本競輪選手養成所)で突出している存在でもなかったですし、デビュー後も「平凡な選手で終わるんだろうな」と思っていたんです。そんな自分を変えてくれたのが後閑(信一)さんはじめ、関東の先輩方でした。

 

後閑さんから『自転車の進ませ方』や『練習の取り組み方』などを勉強させてもらったことで、意識が変わりました。だんだんと大きいレースで走れるようになると、今度は武田(豊樹)さんとの“ライバル関係”で鍛えられましたね。何年かは別の“ライン”で戦っていたのですが、いつの日からか連携するようになり、『関東ゴールデンコンビ』と呼んでもらえるようになりました。

いまでも自分の中では武田豊樹さんが大将。尊敬している選手です。

 

これまでを振り返ると、うれしかったことは1~2割。その思いを大切にしていきたいですね。「競輪人生をどう終えるのか?」自分の中で全く結論は出ていませんが、燃え尽きるまでやり続けたいです。

良いときも悪いときもずっと応援し続けてくれた人たちのおかげで、諦めずにやってこられました。また恩返しできるように、一戦一戦頑張りたいと思います。

 

 

平原康多 Kota Hirahara

 

1982年6月11日生まれ、新潟県西蒲原郡岩室村(現:新潟市西蒲区)出身
身長185.0cm
登録地は埼玉県、ホームバンクは西武園競輪場
父は元競輪選手の平原康廣さん、弟は97期の平原啓多選手。

 

2002年
87期として競輪選手デビュー

2006年
『ふるさとダービー(GⅡ)』でビッグレース初制覇

2008年
『KEIRINグランプリ』初出場

2009年
『高松宮記念杯競輪』でGⅠ初制覇

2022年
通算獲得賞金が15億円を突破

2024年
通算500勝を達成(通算54人目)

2024年
『日本選手権競輪』で3年ぶりのGⅠ制覇

 

 

平原選手のお金の使い道は?

稼いだお金、どこに行っちゃったんですかね? 稼げば稼いだ分、税金に持っていかれて、平原家はぜんぜん潤ってないですよ(笑)。

車が好きで、これまで30台くらい乗ってきました。高くても1,100万円〜1,200万円くらいの車を乗り換えている感じです。今はランドローバーのディフェンダーに乗っています。

息子たちにはこういう環境を「当たり前だと思うんじゃねーぞ」と言っています。

 

■詳しいプロフィールと出走情報はコチラ

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