神澤瑛菜 天国で見守る父に安心してレースを見てもらえるように
2022.02.09
小さな頃から活発で体を動かすことが大好きだった。
勉強は苦手だったが、運動は得意。
ドッジボール、バレーボールに熱中。
小学生のころはクラブ活動、中学生のころは部活に青春を費やした。
中学時代はバレーボールで群馬県大会に出場した。
高校はバレーボールの推薦で前橋育英高校へ進学。
前橋育英は競輪選手を数多く輩出、神澤の父も通っていた高校だった。
高校時代はバレーボールで思い通りの成績は残せず、進路は迷いに迷った。
スポーツの仕事に興味があったので、専門学校のオープンキャンパスにも足を運んだがピンとこなかった。
「母と『高校卒業した後、どうしようかね』なんて会話をしていたとき、父から衝撃的な一言が飛び出したんです。『足で稼ぐんだ!』と。
最初は何を言っているのか分からなかったけど、すぐにガールズケイリンのことを説明してくれました。
見たことも聞いたこともなかったけど、父がいろいろ動いてくれて、グリーンドーム前橋にガールズケイリンを見に行くことができたんです。
初めて見たガールズケイリンは格好よかった。
ガールズケイリン、やれたらいいなってそのときに思いました」
自転車競技の経験がなかったので、日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)の受験は適性試験で受けることにした。
バレーボールで体は鍛えていたので、ジャンプ力や背筋力の自信はあったが、難点は筆記試験だった。
「勉強は本当に苦手で(笑)。SPIが本当に難しかった。
筆記は全く手応えがなかったので、面接だけは一生懸命頑張りました」
運動神経の良さと面接で乗り切った受験は合格。
競輪選手への入口は開いた。
116期の適性試験は16人が受けて神澤を含めて5人合格した。
(残り4人は佐々木綾、岩崎ゆみこ、久米詩、南円佳)
合格はうれしかったが、競輪学校に1年間入ることは嫌だったと振り返る。
「私は家族が大好きなんです。実家が接骨院をやっていて、父母と3歳年上の兄。
小さなころから家族4人でいろんなところへ出掛けていた。
スキーに行ったり、ディズニーランドへ行ったり。楽しい思い出ばかりなんです。
1年間も実家を出ることなんて考えたくなかった」
なかなかガールズケイリン選手になるための心構えが定まらないとき、助言をくれたのは後閑信一(引退・65期)だった。
父と後閑は前橋育英高校の同級生。
面識があったこともあり、娘のために動いた。
後閑へと連絡を取り、競輪学校入学を渋る娘にアドバイスを送るように頼んだそうだ。
後閑信一は競輪選手としてGⅠ3勝のレジェンド。
後閑自身も娘の百合亜がガールズケイリンに挑戦したこともあり的確なアドバイスを送った。
神澤も「後閑さんがいろいろ教えてくれて、ガールズケイリンを本気でやってみようって思いました。背中を押してもらえたので、競輪学校に行く決心が付きました」と振り返る。
競輪学校は苦しかった。
自転車未経験からプロの競輪選手になるには生半可な練習では無理。
厳しいトレーニングに心が折れそうな時は何度もあった。
帰省のタイミングで実家へ戻った時には「競輪学校に戻りたくない」と思ったが、父や後閑の存在を思い出し、闘志を奮い立たせて、学校へ戻った。
同期の存在も大きかった。
1年間同じ釜の飯を食べた仲間同士で支え合い、厳しい学校生活を乗り切り、在校成績17位で卒業した。
同期の吉岡詩織と
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