キラキラと輝く成田可菜絵 挑戦はまだまだ終わらない
2022.05.09
北海道は函館の隣にある上磯町(現在の北斗市)の出身。
弟との2人きょうだい。
外で遊ぶことが大好きで、かけっこの速い少女だった。
小学2年生のときに足の速さを見込まれて陸上クラブに入ると、素質が開花。
短距離種目で小学生の全国大会に出場する実績を残した。
中学は地元の上磯中へ進学。
2年生のとき、全日本中学校陸上競技選手権大会(全中陸上)の100メートル走、200メートル走で優勝。
3年生のときには、前記の2種目に加えて、400メートルリレー走でも優勝。
短距離競技界で成田可菜絵の名前をとどろかせた。
成田本人も「私の人生のピークは中学3年生のときだった」と笑いながら話す。
この時の監督が、成田の恩師。
「継続は力なり」という恩師の言葉が、今でも成田のモットーになっているそうだ。
高校も地元函館にこだわり、函館大谷高へ進学。
函館を離れて、全寮制の陸上強豪高へ行くことも考えたが「地元が好きだったし、函館の学校で成績を出したかったんですよ。函館でもここまでできるんだと思わせたかった」
地元の函館で強くなり、結果を出すことを夢見ていた学生時代。
そのころの目標は「オリンピックに出場すること。プロスポーツ選手になること」だった。
余談だが、116期の伊藤のぞみ(戸井町)とは同郷で同学年。
選手になってから「どこどこ中学のだれだれ先生知っている?知っている!知っている!」と地元トークで盛り上がったそうだ。
高校へは自転車で通った。
「列車は1時間に一本。待っているあいだに自転車をこいだほうが学校へ早く到着する。別に自転車をこぐのが速かったわけではなかった」
自転車の適性はまだこのころは発揮されることはなかった。
高校1年の前半は世界ユース大会へ出場と順風満帆だったが、夏に悲劇は起こった。
長崎で行われたインターハイ。
100メートル走の競技中にハムストリングの肉離れを起こしてしまい、大会を棄権することとなってしまった。
このケガをきっかけに、成績は伸びを欠き、思ったようなレースができなくなってしまった。
高校卒業後の進路は迷った。
陸上はまだ続けたい気持ちが強く、声を掛けてくれた京都にある龍谷大へ進学した。
地元函館を出て京都で1人暮らし。
部活オンリーの生活を過ごしたが、なかなか思い通りの成績を残すことができず、陸上生活は幕を閉じた。
部活終了後、大学卒業までの間に人生初のバイトを体験。
ガソリンスタンドで働いていたそうだ。
大学卒業後は実業団で陸上を続けたかったが、企業から声は掛からず。
趣味で大会に出ることは自身の陸上選手としてのプライドが許さなかった。
大学卒業を機に、陸上競技者として区切りを付けることとした。
仕事は大学陸上部の先輩の紹介で接骨院に就職。
トレーナーになりたいなと思っていたが、任されたのは事務仕事。
受付の仕事も掛け持った。
大阪の堺市で3年間勤めたが、ステップアップしない業務の繰り返しにもんもんとすることが多かった。
そんなときの気晴らしは難波・ミナミに繰り出してお酒を飲むことだった。
「このころが一番遊んでいましたね。週末はだいたいミナミにいたような気がする」
接骨院を辞めたあとは、児童保育の仕事もした。
障害のある子供の面倒を見る仕事はやりがいもあった。
介護やヘルパーの資格を取ろうかなと思っている時期に、ガールズケイリンと出会う。
「ミナミで陸上時代の仲間との飲み会があったんです。
その場に大阪支部の泉利和(98期・引退)がいて。
『カナエ、女子の競輪があるよ』って言われて、その場でやるって言いました。
多分現状に満足していなかったんでしょうね。
スポーツで勝負したい気持ちはずっとあったのかもしれません」
ただ競輪選手になりたいと思っても、自転車経験はママチャリだけ。
どうやったら競輪選手になれるかは全くわからなかった。
泉利和の紹介でその当時、何人かの競輪選手の指導をしていたグッドコンディションの塩田宗廣氏と出会い、基礎的なトレーニングを開始した。
その後、ラッキーなことに当時付き合っていた彼氏の先輩が、後に師匠になる古原勝己とつながった。
「日本競輪学校(現:日本競輪選手養成所)の試験は1回だけにするつもりでした。
自転車経験はなかったし適性試験で。
古原さんには本当によくしてもらいました。
全くの素人の状態から競輪、自転車のことなど、いろいろ面倒を見てもらいました」
1回で受からなければ諦めるつもりだった、日本競輪学校の試験は無事合格。
28歳のとき、112期として競輪選手になるための一歩を踏み出した。
112期の適性合格者は6人。
加藤舞(116期として再入学)、太田りゆ、吉村早耶香、鈴木美教、吉原菜那(引退)と成田だった。
大学、社会人を経験している成田にとって、規則で縛られる学校生活は苦しかったと振り返った。
「112期は若い子も多かったし、いろいろありましたから(笑)。
特にキツかったのは化粧ができなかったことと、お酒が飲めなかったこと。
この2つは嫌だった。
週に一度の休みの日曜日だけが楽しみ。
若い子たちを外出させて、部屋でゆっくりすることが至福の時間だった」
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