ぶれずにしっかり車券に貢献し続ける114期・那須萌美
2022.07.09
那須萌美は宮崎県の北東部に位置する日向市の出身。
兄、姉と3人きょうだいの3番目。
「末っ子だったのでわがままだったと思います」と笑いながら話す。
兄、姉の影響で小学2年生の頃から近所の陸上クラブに入った。
小学生の頃は何もしなくても足が速く、リレーではアンカーを務めるスポーツ少女だった。
中学では陸上競技を続けるか迷ったこともあったが、仲のいい友人と両親の助言により続けることにした。
「中学で陸上以外のことをやってみようと思っていたんですが、両親に『あなたは団体競技に向いていない』って言われたんです。
たしかにリレーで自分の前でビリだと、自分の力じゃどうにもならないじゃないですか。それで負けるとなんとも言えない気分になるし、自分でも団体競技は向いていないと思いました」
高校は兄、姉と同じ、延岡工業高校へ進学した。
日向市の自宅からは電車通学だった。
高校時代は宮崎県大会の七種競技で優勝した実績も残したが、腰のケガをしたこともあり、陸上競技を続けるつもりはなかった。
延岡工業高校は就職率の高い高校で、那須も高校卒業後はJA延岡へ就職した。
任されたのは銀行業務の窓口対応。
しかし働き出すと大きな問題に直面した。
「私、接客向いていない…」
人と接することが多く、気を使うことばかりの銀行窓口業務が苦手だったが、すぐに投げ出すことはせず、なんとか4年間、耐えて仕事をした。
嫌で仕方なかった銀行業務を退職したとき、世話になったのが求職者支援制度。
職業訓練校に半年通った中で、人と接することがなく仕事できたのが溶接だった。
溶接の学科を選び、勉強を始めると、兄の友達の実家で溶接をしている工場を紹介してもらい、とんとん拍子で2つ目の就職先が決まった。
「溶接の仕事は嫌じゃなかった。人と関わらず、自分のペースで仕事ができたし、自分の技術を認めてもらえたのでやりがいはありました」
しかし溶接の仕事は給料でモチベーションが下がってしまったのだ。
「自分の仕事量に対する給料を考えると、高いモチベーションで仕事に向き合えなくなってきてしまったんです」
そんなモヤモヤした時期の唯一の楽しみは趣味のロードバイクだった。
ロードバイクを楽しむ、妹の姿を見た兄がガールズケイリンへのきっかけを与えてくれた。
「兄の奥さんのお父さんが元選手(井上寿博・45期・引退)だったんです。
井上さんが、自分が高校時代に陸上競技で記録を出していたことを調べたみたいで、やってみるかって声を掛けてもらいました。
ちょうど溶接の仕事で満足していない時期だったので『やってみるか』って感じでガールズケイリンへの挑戦が始まりました」
初めて宮崎の自転車競技場でクロモリのフレームにまたがったときのことは今でも覚えているそうだ。
「ロードレーサーとの違いにびっくりした。サドルは硬いし、ギアは重いし、何なのこれって感じでした。
ただ井上さん、後に師匠を引き受けてくれた四元(慎也)さんもいて、『ガールズケイリンへの挑戦、辞めます』って言える雰囲気じゃなかったことも覚えています」と笑いながら話した。
両親には反対された。
3回目の新しい仕事。
反対されるのも無理はなかったが、自分の意思でガールズケイリンをやってみようと決めてからは、競輪学校(現:日本競輪選手養成所)合格に向けて一心不乱に走り続けた。
朝は仕事の前に練習。
出勤して溶接の仕事は夕方まできっちりこなして、夜にまた練習。
土日の休日には宮崎自転車競技場まで出向き練習をした。
114期の日本競輪学校の合格発表は2017年1月。
那須は溶接仕事の休憩時間にインターネットで合格を確認した。
会社には退職することを伝え、両親にも合格を伝え、競輪学校入学へ動き出した。
114期は21人。
年齢層の幅も広かったがみんな仲がよかった。
中でも同じ九州地区でもあり、年も近かった比嘉真梨代とは親交が深かった。
在校成績は4位と健闘したが、これにはエピソードがあった。
「114期は自力で強い子が多かった。
打鐘から600メートルもがくこともあり、それをたたくとなるとものすごく大変だった。
そんな時期に師匠(四元慎也)に電話をしたら『自力や先行の練習は宮崎に帰ってからでもできる。学校ではレースを見る、展開を見ることを勉強してきなさい』と言われたんです。
そうしたら気持ちが楽になり、成績が安定しました」
この記事が気に入ったら
いいね! してね。