田仲敦子 新しい熊本競輪場で躍動することを目標に

2022.08.04

田仲敦子は火の国・熊本出身。

姉と弟2人の4人きょうだい。

小さい頃の思い出は「よくケガをしていたこと」と話す活発な女の子だった。

 

母の「体が強くなるように」という思いから始めた水泳は小学生時代に熱中。

中学、高校ではバスケットボール部に所属。

 

高校は市立千原台高校。

自転車競技部もあり競輪選手も輩出しているが、田仲敦子が通っていた頃にはガールズケイリンがなかったので、自転車競技部に入ることはなかった。

 

高校卒業後の進路は2つで迷った。

保育士か体育の先生になりたかった。

 

「2つ下と4つ下に弟がいたこともあり、保育士の仕事に魅力を感じていた。

高校卒業後の進路は迷ったけど、保育の学校に行くことにしました」

 

高校卒業後は熊本保育大学へ進学。

保育士の資格も取ったが、体育教師の夢を諦め切れず、保育大卒業後に、沖縄の名桜大へ編入。

 

名桜大時代に自転車競技と出会った。

自転車競技の大会に参加しながら、保健体育の教員免許を取得。

 

名桜大学卒業後は、沖縄県立北中城高校の教員となり、自転車競技部の顧問も引き受けた。

 

北中城高校・自転車競技部の顧問時代

 

自転車競技の顧問として、学生の指導をしているとき、「ガールズケイリンスタート」のニュースを耳にすると「自分もやってみたい」とスイッチが入り、1期生の試験を受けたが、不合格だった。

 

「1期生の試験は教員の仕事をやりながらの状態で受けた。

結果は案の定ダメだった。

でも試験に落ちたことで、本気でガールズケイリンをやりたいと思った。

ちょうど、顧問の仕事も一区切り付いたので、退職することに迷いもなかった」

 

2期生の試験合格に向けて、教員の仕事に区切りを付けると、地元熊本に戻り、試験合格に向けての練習をスタートさせた。

 

両親も応援してくれた。

教員を辞めて競輪選手になることを後押ししてくれて、練習にも付き合ってくれたそうだ。

 

コツコツと地道な練習の成果が実り、日本競輪学校(現:日本競輪選手養成所)104期・女子2期生の試験に合格したが、在学中は苦しい道のりだったと話す。

 

「学校時代はつらい思い出しかないですね。

入学前にギックリ腰。一度は落ち着いたが、訓練中に腰のヘルニアになってしまい、手術をした。

練習に参加できず、どんどん同期に遅れていくことが本当に苦しかった」

 

そんな中で支えになったのは入学前から交際していた旦那の存在だ。

 

「大学時代から付き合っていた。

(日本競輪学校)在学中は手紙のやりとりで励ましてもらいました。

そのおかげでつらい時期を乗り越えることができたと思います」

 

同期の存在も支えになったそうだ。

 

「特に在校中は杉沢毛伊子に助けてもらった。

杉沢さんは学校に入る前、スポーツトレーナーの仕事をしていたので、体のことをいろいろ見てもらった」

 

104期の同期と

 

田仲は周囲の支えのおかげで学校生活を乗り切った。

104期の在校成績は16位で卒業した。

 

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