2世レーサー・萩原瑞生 場外車券売場勤務からガールズケイリン選手へ
2022.09.01
父親(昌伸・51期・引退)に競輪選手を持つ2世レーサーの萩原瑞生。
競輪とは無縁の生活から勝負の世界に飛び込んだストーリーを紹介する。
群馬県前橋市の出身。
3つ下の弟と2人きょうだい。
父は競輪選手だったが、家庭に仕事を持ち込むタイプではなく、練習は祖母の家ですることが多く、小さな頃の記憶に競輪はあまりなかったと振り返る。
「小さい頃、父の走っている姿を競輪場に見に行った記憶があるけど、それ以外は本当に競輪とは無縁の生活を送っていた。
小学校の高学年の頃、放課後の陸上クラブに入って、大学までは陸上一本の生活を送っていた。
中学も地元の公立へ進学。部活に熱中する青春でした。
高校は群馬県内で女子の陸上競技部が強かった県立伊勢崎清明高校へ進学しました」
陸上強豪高の伊勢崎清明高校2年の時、三段跳びへ種目を変更すると、素質が開花。
日本ジュニア・ユース選手権で全国1位に輝いた。
また高校時代にママチャリで自宅から高校まで片道30分の自転車通学をしていたが、ガールズケイリンとの出会いは先の話。
高校時代の夢は陸上競技での大学進学。
大学から実業団へ行き、陸上競技を続けることだった。
思い描いた夢の通り、高校卒業後は順天堂大学へ進学した。
しかし大学時代は成績が伸び悩み、実業団行きとはいかなかった。
「大学時代はケガや成績の伸び悩みでつらかったですね。
大学入学とともに、実家を出て寮生活。
実家にいたときは母が料理をしてくれたけど、大学に入ってからは乱れてしまった。
実家で節制していた頃に食べることのなかったものを口にすると、一気に体重は増えてしまった。成績は付いてこないですよね。
大学卒業後にやりたいこともはっきりせず、ブレブレでした。
養護教諭になることも考えて群馬県の教員試験も受けたけどうまくいかなかった」
群馬・草津にて
やりたいことも見つからず、大学卒業を迎えると、とりあえず実家のある群馬へと帰った。
家でだらだらするわけにもいかないので、仕事を探した。
陸上競技で体を動かすことをしていたので、地元のスポーツ施設へ就職したが、まったりとした時間の流れに違和感を持った。
そんな時期に求人サイトを見ていると、場外車券売り場「サテライト前橋」の募集が目にとまった。
「面白そう」
この好奇心でサテライト前橋へ電話をし、晴れて契約社員で働くこととなった。
サテライト前橋では接客業務が主な仕事だったそうだ。
「車券を買いにくるお客さんとのコミュニケーションは楽しく、とてもやりがいのある仕事でした。
シフトもいっぱい入れたので、お給料もよかった。
ただ仕事場のテレビ画面を見ていると、同世代のガールズケイリン選手が走っていて、自分の気持ちがモヤモヤしてきた。
自分もやってみたいという感情が芽生えました」
「挑戦の時」と思ってからはすぐに両親に相談した。
「やってみたら」と後押しもしてくれて、ガールズケイリンへの挑戦はすぐに決めた。
しかし大学生の後半から全く運動をしていなかったため、体は緩んでいた。
「自分の体は太りやすくて痩せにくい。
母が料理でコントロールをしてくれていたけど、大学に入ってからは自分に甘くて大変でした。
まずは動ける体を作るところから始めた。
自転車競技の経験はなかったので(日本競輪選手)養成所の試験は適性で受けることにしました。
1次試験は通過できる自信があったけど、2次試験のときは苦しかった。
SPIや作文はなんとかなったけど、ワットバイク(固定式自転車)の手応えが全くなかった。
これは絶対試験に落ちたなと思って落ち込んだ。
伊豆から群馬へ帰る車の中ではずっと泣いていました」
養成所の合格発表日は落ち着かなかった。
合否はインターネットで発表されるが、結果発表の時間を勘違いしていたこともあり、ジムでトレーニングをしているときに両親からの連絡で養成所の合格を知った。
「2次試験の数値に手応えがなかったし、ダメだと思っていたので、合格の知らせは嬉しかった」
サテライト勤務時代に憧れたガールズケイリンへの第一歩を踏み出した。
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