常にワクワク!前を向いて進み続けるベテラン・杉沢毛伊子
2022.10.07
静岡県富士市の出身。
一人っ子だった杉沢は学ぶこと、考えること、本を読むことが大好きで、「ガリ勉でした」と幼少期を振り返る。
運動との出会いは、ガリ勉だった娘を心配した母の気遣いだった。
近所のミニバスケットボールクラブの体験学習に連れていき、半ば強制的にバスケットボールを始めさせた。
「小さい頃から足は速かった。昔は個人情報が『ダダ漏れ』の時代。自分の足が速いことがミニバスクラブの関係者に知られていたみたい。
母に体験でクラブに連れてこられると、ボールや靴が用意されていて、逃げられない状況だった」と笑いながらバスケットボールとの出会いを話してくれた。
杉沢が始めた頃、時代は「スラムダンク」の絶頂期。
嫌々始めたはずのバスケットボールも、スラムダンク効果もあり、のめり込んでいった。
「スラムダンク、ハマりましたね。桜木花道が好きだった。
素人から始めて、泥臭いけど少しずつバスケがうまくなっていく、そんな桜木花道に自分がダブったのかもしれないですね」
中学でもバスケ部に所属。
杉沢が通った中学は1学年10クラスのマンモス校。
体育館での練習は週に1、2回。
グラウンドでの練習が多く、顧問の目を盗んでサボりがちになってしまった。
高校は静岡のバスケットボールの古豪・市立沼津高へ進学した。
「高校では挫折を経験。中学まではレギュラーで試合に出られていたけど、高校に行ってからはユニフォームをもらえないときもあった。
いままでは仲間の存在に助けられていたことを知りました」
高校卒業後の進路は迷いに迷っていた。
やりたいことが定まっていなかったのだ。
「高校の顧問は教員になることを勧めてくれたけど、気が乗らなかった。
バスケは続けたいけど、試合に出たかったし、大学1部リーグではなく、2部で試合に出られそうな大学を探しました」
大学時代の杉沢
大学は千葉の市川にある和洋女子大学を選択。
高校の寮生活から一転。
1人暮らしを開始して充実のキャンパスライフを送っていた。
しかし大学3年の冬に大きな転機が起こった。
部活と並行して行っていた就職活動。
慣れないハイヒールで会社を巡り、夕方からは部活の練習。
そんなタイミングで膝を故障してしまったのだ。
「右膝の十字じん帯の断裂でした。ショックでしたね。
どうやって自宅に帰ったかも覚えていなかった。人生最大の試練でした。
4年生になって、これからトーナメントっていう時期のケガだったのでつらかった。
手術することになり、選手生活は諦めることになった。
最後の1年は部活の裏方に徹することになりました」
就職活動中の杉沢(右端)
小学3年生からバスケ一筋の人生を歩んできたが、ケガでリタイア。
第2の人生は会社員として過ごすことになったが、ここも一筋縄ではいかなかった。
「スポーツはもういいやって気持ちになり、(仕事が)できる女になって頑張ろうと思い、IT系の大手企業へ就職することができました。
でもこれがまた大変だった。理想と現実は全然違った。
与えられた仕事はパソコンと10時間以上向き合ってひたすらキーボードを打ち込むだけ。
1日中誰とも喋ることもなく、コーヒーをガブ飲み。
ちょっと精神的にきつい仕事でした」
メンタルブレイク寸前の状態になり、持ち場の変更を申し出るタイミングで運命の連絡が杉沢のもとに届いた。
「初動負荷のジムが静岡に新しくできるよって連絡をもらったんです。
話を聞いた瞬間『これしかない』と思いました」
初動負荷。
プロ野球選手のイチローが取り入れたことで有名になったトレーニング。
杉沢は高校時代から初動負荷のトレーニングをしていたこともあり、大学時代も千葉にある初動負荷のジムに通っていた。
その千葉のジムで知り合った人から、静岡で始まる話を聞いたそうだ。
IT企業を退社して、初動負荷の勉強をするために単身鳥取へ。
3年間で覚えることをわずか半年でたたき込んだ。
「小さいころから勉強することは好きだった。
人生で一番勉強した期間でしたね」
努力のかいもあり、静岡での初動負荷のジムのオープニングスタッフとして働くことになった。
ジムでの仕事は楽しかった。
パソコンと向き合う仕事から、人と人をつなぐ仕事。
180度真逆の仕事で杉沢は生き返った。
「人と関わることが好きってことが分かりました」
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