今年40歳を迎える保立沙織 初優勝を自力で勝ち取る!
2023.01.13
保立は太平洋に面した海岸線の街、茨城県神栖市出身。
2つ下の妹と2人姉妹。
小さなころから体を動かすことが大好きな元気な少女だった。
「神栖市はほんとに何もない田舎。自然の多い街だったので外で遊ぶことが多かった」
小学生のころソフトボールにハマり、中学でも続けようと思ったが、進学した学校にソフトボール部がなかった。
仲良しの友達に誘われたことがきっかけで、バレーボールと出会うことになった。
保立(一番左)
バレーボールは楽しく、高校の選択はバレーボールの強豪校への進学だった。
「地元の中学の先輩が土浦日大高校へ進学したこともあり、自分も土浦日大へ行きたかった。
ただ両親には反対されました。
土浦日大へ行くことになれば寮生活。
お金も掛かるし賛成してもらえなかった。
でも自分は絶対に行きたかったし、試験も頑張った。
両親も合格したら納得してくれて志望校へ行くことができました」
憧れの高校へ入学し、バレーボール部の活動がメインの生活がスタート。
16歳で親元を離れて寮生活となったがホームシックは全くなかったそうだ。
高校時代は茨城県で2位が最高成績。
ライバル校に勝つことができず、全国大会へ行くことができなかったが、まだまだバレーボールは続けたかった。
高校卒業後は就職ではなく大学進学の道を選んだ。
「大学に行けばバレーボールを続けることもできるし、体育教員の免許も取れる。
両親も納得してくれたので東京女子体育大学へ進学することができました」
大学入学後、インドアのバレーボールを続けるつもりだったが、ひょんなことからビーチバレーと出会うことになった。
「ビーチバレーをやっている4年生のパートナーがいなかったんです。
『ビーチバレーやりたい子、いる?』って感じで人を探していたんです。
ビーチバレーは大会でいい成績を残せると賞金がもらえるのも知っていたので、『やります』って飛び付きました」
運動神経抜群の保立はビーチバレーでもその才能を遺憾なく発揮。
大学1年生の2002年から4年生の2005年まで全日本ビーチバレー大学男女選手権の女子の部で4連覇を達成した。
大学卒業後は地元茨城に帰り、小学校の臨時職員として働いていたが「ビーチバレーを本格的にやりたい」という気持ちは日に日に強くなり、東京へ戻ることにした。
派遣OLとして仕事をしながら、土日はビーチバレーの試合、練習の日々を過ごした。
選手生活の後半はスポンサーにも恵まれてビーチバレーに専念できた。
ビーチバレーのほかにも女子ラグビーに挑戦したこともあったが、このチャレンジはうまくいかなかった。
そんな時期にガールズケイリンで活躍する仲間の姿を見て、「自分もやってみたい」と思ったそうだ。
ガールズケイリンの存在は早い段階から認知していた。
96期の楠木孝志郎(熊本・引退)は同学年。
106期の金田洋世(神奈川・引退)、108期の尾崎睦(神奈川)が競輪界で活躍していることは知っていた。
尾崎(左)と保立(右)
特に尾崎睦は東京女子体育大学の後輩。
保立が3年生のとき、尾崎が1年生で入ってきた。
「むっちゃん(尾崎睦)の存在は大きかったですね。
むっちゃんのデビュー戦を川崎競輪場に応援にもいきました。
バンクで活躍するむっちゃんを見て、自分もやってみたいと思いました。
今でもその存在はすごく大きくて。
一緒のレースはすごく嫌だけど笑
開催が一緒だと、居心地が良くてたくさんお話できるのが嬉しいんです」
保立(左上)、青木美優(右上)、岩崎ゆみこ(左下)、尾崎(右下)
ガールズケイリン挑戦は118期。
「中途半端な時期があったんです。
ガールズケイリンをやりたいと思うけど、挑戦の決断ができずだらだらと。
いろんな人に迷惑をかけた時期でした」
118期の試験は適性で受けた。
大学時代のビーチバレーの実績が考慮され、1次試験は免除。
2次試験も無事突破。
ガールズケイリン選手への第一歩を踏み出した。
(日本競輪選手)養成所は未知の世界だった。
未経験で入った競輪界。
自転車の扱い方もわからない状況からのスタート。
生徒会長にも任命されるが、自分のことで精いっぱいだったそうだ。
「118期は高校卒業から現役入学の子も多かった。
全体的に若い子が多い期で大変だったけど、周りに構っている時間はなかった。
とにかく覚えることが多くて大変でした」
養成所生活は未勝利、在所成績19位で卒業。
「とにかく不安しかなかった」と当時を振り返った。
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