『やればできる』は魔法の合言葉 松尾智佳
2023.03.14
ガールズケイリン1期生の松尾智佳は愛媛県松山市生まれ。
兄と弟がいて3人きょうだいの真ん中だ。
生後6カ月のころからスイミングをスタート。
始めたきっかけは夜泣き。
赤ちゃんのころ、夜泣きがひどかったことからベビースイミングに参加。
運動をすることで寝付きが良くなり、夜泣きは減っていったそうだ。
小学3年生からマウンテンバイクも開始。
兄の影響でマウンテンバイクにはまっていったそうだ。
中学時代は水泳部に所属。
このころの夢は水泳でオリンピックに出ることだったが、年齢を重ねる中で周りのレベルの高さを感じて、水泳への熱は下がっていってしまった。
水泳でダメでも、自転車ならばとポジティブに考えて、高校2年生から自転車競技生活を本格的にスタートした。
ガールズケイリンは開始前。
女子の自転車競技者は大学に進学し、競技を続ける道しかなかった。
松尾は悩んだ。
「自転車競技は続けたいけど、地元愛媛は離れたくない」と。
悩んだ松尾だが行動は早かった。
高校3年生の時、松山市内にある松山大学へ直談判。
「自転車競技部を作りたい」と大学関係者に熱意をアピールした。
大学関係者は「同好会から。人数を集めて、実績を作り部活になれるように」とやさしい声をかけてもらえた。
その後は松山大学合格のため勉強を頑張ったそうだ。
無事松山大学に合格すると、自転車競技愛好会を設立させた。
大学入学後は部員を集めることと活動資金を集めることに奔走した。
マウンテンバイク仲間やいろいろな企業がスポンサーになってくれたが、活動資金が足らないときは松尾自身もバイトをしたそうだ。
大学時代の松尾
自転車競技をやりたい思いだけで無我夢中だった大学2年生の松尾に突然朗報が届いた。
「女子競輪のエキシビションレース」を男子の競輪開催中にやるという話だ。
大学生にとってはありがたい話だった。
大好きな自転車競技のレースができて、お小遣いももらえる。
松尾は喜んでエキシビションレースに参加した。
ガールズケイリン1期生の篠崎新純や2期生の石井寛子とはこの時代から続く間柄だ。
エキシビションレースに参加することでプロの男子選手の走りを間近で見ることが増えると自然と競輪選手になりたい気持ちは強くなっていった。
大学4年生になると松尾の周囲では就職活動が始まった。
松尾はやりたいことが見つからず、自転車競技を続けたい気持ちだけが大きくなった。
そんなタイミングでの「ガールズケイリン復活」のニュースは飛び上がるくらいうれしかったそうだ。
「ニュースを聞いて、すぐやりますって感じでした。
ガールズケイリンをどんな感じでやるとか詳しいことは何も発表されることはなかったけど、とにかく仕事としてできることがうれしかった」
同期の後閑百合亜(引退)と
進むべき道が見つかると、試験に向けて松山競輪場で練習に励んだ。
大学時代、数々のアマチュアが競輪学校(現・日本競輪選手養成所)の高い壁に阻まれて、何度も試験に挑戦する姿を見ていただけに、一発合格へ練習を緩めることはなかった。
練習の成果もありガールズケイリン1期生として合格。
晴れて競輪選手の第一歩をスタートした。
1期生はゼロからのスタート。
生徒も教官も手探り状態。
そんな中でも松尾は持ち前の明るさを生かして苦しい学校生活を乗り切った。
33人の同期の中でも仲が良くなったのは同部屋の戸田みよ子と山口菜津子。
声の大きい戸田と一緒にいることで目を付けられることもあったが、楽しく乗り切ったそうだ。
在校成績は11位。
アマチュア経験も豊富。
ガールズケイリンのエキシビションレースにも参加とデビュー前の松尾の評価は高かった。
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